10.06.2008

w兄弟の詩

せんべいの、食べ屑はこぶ、ありんこよ、大きくないかい、食べきれますか

私には、何の不動も、ありません、慌てて恥じかき、白眼で見られ、やっとこ主だけに、頼ります

まどろみの、心地よささは、格別ね

愛すれば、離れすぎずに近すぎず、解っているのに、心得ないな・・・

赤とんぼ、ヘリより上手に、飛んでるね

雨の中、ひっそり佇む木だちかな

どちらから?待合室に、風が吹く

赤茶けた、線路と枕木、あの日でしょう

二時間の、電車も待てる、旅人は

飯炊きの、火加減にさえ、命がけ

電車まだ、ホームに寝転び、流れ雲

疲労感、気持ち良ささに、うとうとと

間に合った!祭りの後の、残り夏

ゆっくりと、歩く歩幅の、贅沢さ

逢いたくて、遠回りして、逢いたくて

湖面から、渡ってそよ風、届きます

木もれ日が、テントの中の私にも、届いて遊ぶ、ゆ~らゆら

谷に沿い、道はなります、峠越え

泣けばいい、笑えばいい、人だもの

沈静化、わくわくしない、旅支度

この部屋の、住民わたし、だけじゃない

ちゅんちゅんと、すずめ泣く声、わらべ歌

しょうがなか、意欲のでんこと、死ぬに死ねれん、生きるに生きれん

我、世にて、忘れな草と、成りはてる

これでいい、人が何言う、かまいなし、救いたまえり、ただ主にありて

我が身など、寿命と共に、消え去りし、汝(なんじ)のためと、願わす十字架

クリスチャン、地を這う止めて、繭(まゆ)の中、安息なさい、お眠りなさい

秋の夜の、雨降り続き、虚無の虫、雨宿りにて、鳴き続けたり

キリストと、共なる十字架、我死して、キリストだけが、生きたるこの身(ガラテヤ2:20)

9.16.2008

passing through the cross

もうずいぶんかかっているけれど。

すべてを見ることはできない。わからないことはわからない。
主にすべて持って行き、赦し、委ねる。知っておられる方に。

これからどうしよう・・・という思いも。

何もしなくていい。何も決めなくていい。
先を歩いてくださる主について行くだけ。

十字架で、木、草、わらが焼かれてゆく。
人間の方法、信仰ではないもの、愛でないもの・・・その影響。

これまでのことも、今手元にあるものも、すべてを主から直接受け取ろう。
すべてリセット。再スタート。ただ主のもとで、主と。

今日、気付いたこと・・・私の態度、心にあったもの・・・敵が付け入る機会。Never cling to anybody. Never. 大きな収穫^^

Delighted in where I am.
So glad that He is here in my everything.

9.12.2008

人についてしまうと、その人の目で人や物事を見てしまう。
それはいけない、と、批判される側に身を置こうかと思った。
でも、それも違う。

私は主と共に御座にいる。
そして主は、すべての聖徒たちの側に立っておられる。
慈しみと憐れみをもって。

主とひとつ。
ただ主の中に留まろう。

9.03.2008

一つの結論

自由であるということは、神が私たちに望まれる第一のこと。
それが土台であるところで、私たちは神と関わり、選択をする。

世がどんな様相を呈しても、どんなに人間の悲惨に主の心が痛んでも、
神は自由を取り去らない。
それほどに、自由は大事なもの。

人を手放し、自由にし、あとは主に委ねる。
それが、人にできる最善なのだろう。

手放すことで、痛みも悲しみも心配もなくなるわけではない。
だけど、手放すのは主の御手の中。
あとは主が負ってくださる一部を負わせていただくだけ。

主と共に泣き、共に願う。
真の自由を祈る。

主の重荷だから、もはや重くはない。

9.02.2008

starting all over again

また1から新たに歩み始めよう。
これまでを後にし、新たに主へと。
キリストを兄とし、御父を父として。

弱さが主と出会い、憐れみを受けると、
それは杯を満たし、溢れる。

種は地に落ち、地下深く根を張る。
暗闇に。
いのちにショートカットはない。

寂しさと痛みの向こうに、平安、自由、喜び、豊かさ。
何もないところから。

1.20.2008

a little more progress

最近学んでいる一つのことは、マイペースで進むべきこと。今まで人の実際を追いかけてしまったために大変になり、得られるべきものも得られずにきてしまったわけです。前にも書きましたが、そこには、取り残されてしまう、という大きな不安がありました。

今、自分のペースに戻り、落ち着いて私に個人的に関わってくださる主とゆっくり着実に歩むようになりましたが、そのような中で今朝、また一つのことに気づきました。

私たちが御霊に導かれているのであれば、結局は同じ主の流れの中にいること、その時の主の同じ御業の中にいること。自分に起こっていることは私個人のことのように思えますが、実はその流れの一部。これも頭ではわかっていたつもりでしたが、今朝、具体的にそれを主があることを通してはっきり見せてくださり、大きな安心と喜びを得ています。
実際面で同じことをして得る安心と、この深い確信による安心とは別物。これは私にとって本当に大きなこと、大きな励ましです。

そう、それぞれがユニークでばらばらの歩みをしているようでも、主の下、主の栄光の中で一つであり、実は一緒に歩んでいるのですね。不思議なことです。

そう、焦らなくていいのです^^ 主に感謝します。

1.15.2008

Rom 8:37-39

Rom 8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 Rom 8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 Rom 8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。